オオヨシキリ
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モーツァルトのジュピターを客観的に聴こうと思い、誇張した表現が少ない、ブロムシュテット指揮、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団のものを入手しました。
芸術作品に順位をつけるのは無意味だとは思いますが、一番素晴らしい交響曲だと思いました。
特に、崇高な精神の美を感じる第4楽章に感動しました。
ベートーベンは、ロマン派の音楽への扉を叩いたと言えると思います。
モーツァルトは、人間の心の扉を叩いたと思いました。
また、ザーロモンが名づけたとされる『ジュピター』という名称は、適当ではないとも思いました。
誤解を生みかねないと思いました。
天を支配するゼウスのような力を、モーツァルトは何一つ求めなかったと思います。
むりにモーツァルトの墓を特定し、交霊しようとするようなものだと思います。
モーツァルトの音楽は、常に拡大し続ける宇宙そのものであり、天も地もなく、生も死もないと考えられると思います。
モーツァルトの音楽にやさしさ、喜び、悲しさを感じるのは、私たちの生命が宇宙に向き合っているからで、自分たちでつくり出した感情だと思います。
自由も不自由もすべて私たちしだいだと思います。
地球温暖化は、私たちに解決できることだと思います。
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のどかな初春の内湾を見て、深呼吸しました。
スズガモさんが群れで休息していました。
渡りをするスズガモさんたちは正しい自然で、エビセンに群がるウミネコさんたちは、今の人間と同じで、間違った自然だと思いました。
しかし、モーツァルトのジュノムをゼルキンのピアノで聴いて、考えを改めました。
逆光による幻
(雨粒の一滴さえ、常に拡大を続ける宇宙の大きなプログラムで、落ちる位置一ミリさえ決定されている。また、生物のDNAにも書き込まれ、偶然はあり得ない。)
ゼルキンは心、筋肉、骨格を弛め、モーツァルトの音楽という宇宙の意思を人間に取り戻しながら、限りなく自然に溶け込んでいく、その心に共鳴するかのように弦楽器、管楽器が鳴った瞬間に、共存、共生という言葉が聞こえ、スズガモさんとウミネコさんが同一に見えました。
限りないナチュラルさから生じた不安定なゼルキンのテンポでも、自然と一体になる心は本来みんなの内にあるものだけに、弦楽器、管楽器もゼルキンのピアノのように、時間を超越して美しく響いているように感じました。このように素晴らしいジュノムを聴いたのは初めてでした。
ゼルキンのピアノの音で、境界のない、とても怖いモーツァルトの音楽に自由が生まれ、人間の在り方を探す人間がとれる最良に近いアプローチを知り、生命の温かさを感じ取れる一時が作られたと思いました。
このジュノムを聴いて、地球温暖化の問題は、人間の根本を照らし出すと感じました。文明と自然、自由と束縛、幸福と失望、国家間、国内の格差等々・・・。
地球温暖化の問題を解決するためには、人間の幸福とは何か、考える必要があると思いました。
ところで、モーツァルトのレクイエムでジュリーニが気になりましたので、ファリャのバレエ音楽『恋は魔術師』を、ニューフィルハーモニア管弦楽団で聴いてみました。感情表現が豊かで良いと感じました。
その後、デュトワ指揮、モントリオール交響楽団で、ビゼーの『カルメン』、『アルルの女』を聴いたのですが、素晴らしい演奏でした。特に『アルルの女』の組曲第2番のよく知られている第3曲「メヌエット」には南フランスのやさしい風を感じました。
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NHKの番組、『千の風になって』の影響を受け、フォーレとモーツァルトのレクイエムを入手しました。
レクイエムを聴いてみて、利己的な面を改めず、美しい自然を無くしてしまったら、『千の風になって』は歌えなくなるでしょうし、永遠の安息もないと思いました。
バレンボイムがパリ管弦楽団を指揮したフォーレのレクイエムは、どこまでも澄んでいて、ソプラノのヴィブラートさえ気になりました。鐘の音が、昔にも、教会に祈りの歌声が響いていたことを連想させてくれます。やはり第7曲の《楽園にて》は、ボーイソプラノで聴きたいと思いました。
この後、歌曲ではなく、シュロモ・ミンツのバイオリンで、バイオリンソナタ第1番を聴いてみましたが、フォーレのメロディーの美しさはそこにもありました。
フィルハーモニア管弦楽団をジュリーニが指揮したモーツァルトのレクイエムは、大きく、荘厳な表現がなされていると思いました。しかし、どうしてもこの曲は、バッハのような神に対する敬虔さとは違う音楽と考えられるため、モーツァルトにレクイエムは似合わないと感じました。どんな小曲であっても、モーツァルトの他の作品にすでに宇宙の意思、言い換えれば、音楽そのものが表現されていると思うからです。モーツァルトは、レクイエムを完成させる必要がなかったとも言えると思います。
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ドヴォルザークの交響曲第8番、第9番のレコードを入手しました。
ノイマン指揮による8番は、とても自然な表現だと思いました。
ウィーンフィルをカラヤンが指揮した9番に、気品のある美しさを感じました。
ドヴォルザークの心の中には、いつも故郷ボヘミアがあったと思います。
ドヴォルザークが新世界で聴いた音楽に愛しい祖国を感じたように、世界中の人々にも大切な故郷があります。
アメリカからボヘミアに送ったドヴォルザークの手紙に、出来る事であれば、みんなの故郷である地球の温暖化防止の必要性を書き足して第5楽章とし、世界の意志が一つになることを願いたいと思いました。
真冬の海のさざなみの輝きは、なかなか地球温暖化の深刻さを受け止めようとしない、海から生まれた私たちに、やさしさから離れてしまった文明は存続し得ないが、しかし、私たちの心をそっと包み込むように、It is never too late to mend.と言っているようでした。
すべての生物の声を聞き、人間として地球温暖化に向き合い防止のため努力する、それが人間の幸福につながることであり、それは人類がずっと願ってきた永遠の扉を開ける鍵だと思います。
ひとりひとり、みんなのことを思って小さなことから始める、それがやさしさを持った文明だと思います。
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ショパンのピアノソナタ、バラード、練習曲のレコードを入手しました。
小品よりも、いくつかの小曲を組み合わせたかのようなピアノソナタに、その創作、構築の過程で、ショパンの音楽に対する気持ちは現れているのではないのかと思ったからです。
音楽に対する情熱、ピアニストとしての深情がショパンの気持ちだと思いました。
ショパンの華麗な小品を演奏する場合でも、ピアニストはさりげなく、内に熱い感情を持っている必要があると思いました。
ピアノソナタ第2番、第3番とも、アルゲリッチの演奏は素晴らしく、第2番の第4楽章、ユニゾン部分の表現は豊かだと思いました。
一方、この頃のアシュケナージのバラードは多彩な響きで美しいのですが、表面的なダイナミックな表現によるコントラストは危うく、精神的な充足は得がたいと感じました。
祖国を離れたショパンは、もっと熱く純粋だったと思います。
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FM放送であまり取り上げられないレコード、CDを購入しました。
ホロヴィッツが10年以上演奏会を休止している時、またはその後の録音でも、ピアノ演奏技術は素晴らしく、技巧に対する甘心と葛藤を昇華して老成したような、ホロヴィッツの心から発せられるピアニストとしての寛容さが、ロマン派の音楽への道を開いた『楽聖』人間ベートーベンの優しさを顕現させていると感じました。
一方ゼルキンの弾くモーツァルトは、テンポ、音の強弱がメチャクチャで、モーツァルトではないと初め思いましたが、そうではなく、一つのモーツァルトの音楽へのアプローチで、音楽に対する深い識見を基礎としたナチュラルな表現方法だと理解しました。心を解放し、何にも囚われず、筋肉と骨格を自然に使った表現は、同じ音楽家である楽団員に影響を与え、管楽器、弦楽器とも、自然に美しく鳴り響いていると思いました。特に、27番の第3楽章に胸を打たれました。
ところで、テノールのエルンスト・ヘフリガーが、日本の歌曲『荒城の月』をピアノ伴奏で独唱しているところをテレビで放送していました。畏敬の念を禁じ得ませんでした。地球温暖化が進行していますが、ヘフリガーの歌を聴いて、その時、音楽という文化は、反対にある自然を取り戻す力を持っていると確信しました。
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沼にはたくさんオオヒシクイさんがいました。
頭を背にのせて、休息していました。
ところで、この時期は、モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』を聴きます。
ピアノ伴奏による、混声合唱で聴きたいものです。
はじめの2小節のピアノ伴奏で、唯物、唯心を越え、もう、すべてが耳を傾けそうなくらい、旋律は洗練されていると思います。
バッハの神に対する敬けんさとは違い、モーツァルトは音楽そのもの、イコール創造の意識だと考えることができ、モーツァルトの音楽により、すべての感情は抑制されることなく、自然に輝きだすと思います。
形あるもの、心あるものに真っ直ぐに届くように、ビブラートをおさえた演奏が望ましいと思います。
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ブランデンブルク協奏曲のCDを購入しました。
演奏は大変素晴らしく、感動しました。
しかし、CDの音は硬いという先入観があるためなのか、そう感じました。
気のせいだと思うのですが、注意して聴けば聴くほど、硬いと感じてしまいます。
レコードの方が、音が柔らかく豊かに感じてしまいます。
レコードのように、人の耳には聴こえない音でも、出ている量が多いほうが、臨場感は増すものなのでしょうか。
皮膚や内臓でも音を感じているのでしょうか。
大昔は、火山の噴火、大型獣が移動する振動、天変地異の前兆の音など、実際には聞こえない音、気配を察知する必要があったのでは、などと推測してしまいます。
『2つのバイオリンのための協奏曲二短調 BWV1043』はいいですね。
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏はいいと感じます。
最初は、ニコラーエワさんのピアノでバッハを聴きました。
そして、カール・リヒターを知りました。
その演奏は、素晴らしいと思いました。
管弦楽組曲は、バッハの生きた時代、バッハ自身を少し遠くから感じたいときに聴くといいと思います。
初めて、グレン・グールドの『ゴルトベルク変奏曲』を聴いたとき、彼はスポーツマンか、と思いました。
リヒターの表現には自由がありますが、グールドは、バッハの曲から自由に詩を紡ぎだしているように感じます。でも何れも、バッハの曲そのものだと思います。
バッハは宗教音楽家で、その音楽には優しさがあると思います。
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とても好きな、バッハの『マタイ受難曲』のCDを購入しました。
でも、間違いがあり、『マタイ受難曲(抜粋)』の時の演奏ではありませんでした。
『マタイ受難曲』に、命あるものの可能性を感じます。
リヒターの指揮は素晴らしいですね。
第73曲の合唱、「げにこの人は、神の子なりき」は、特に感激します。
ところで、秋に聴きたい音楽は、モーツァルトの『クラリネット協奏曲 イ長調 K.622』です。
紅葉、夕焼け雲、夕暮れのススキ、日本ですから、中秋の名月とお供え物、などといっしょに聴きたい音楽ですね。
カール・ライスターのクラリネットで聴きたいものです。
モーツァルトの音楽は、実は一番怖い音楽だと思います。天も地もなく、生も死もなく、神の存在も関係なく、たよるものが何もない、境界が何もない、「音楽そのもの」だと思うからです。
一番好きな音楽は、モーツァルトの『ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 KV595』です。
特に本当のレクイエムとも言える第2楽章が好きです。
ピリスのピアノで聴きたいものです。
どんな音も感情の中に埋没させることができない、いいかげんな音を出せない悲しさが、最大の優しさを表現していると思います。
モーツァルトが、ふざけて浪費したところに似ています。
バッハの生命の可能性を感じる音楽、モーツァルトのありのままの宇宙の意識を感じる音楽、どちらも同じ優しさを持っていると思います。
人間の文明、文化に間違いがないということと、人間は宇宙の一部であるということは、同じだということだと思います。
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